|
愛宕(あたご)は、日本海軍の重巡洋艦。高雄型の2番艦である〔#艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.1『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|一等|高雄型|高雄、愛宕、鳥海、摩耶』〕。艦名は京都府の愛宕山に因んで命名された。未完成に終わった天城型巡洋戦艦愛宕の名前を受け継いでいる〔Ref.C08050173800「軍艦天城愛宕高雄製造一件(製造取止め)(1)」〕〔#大正9年達3月p.19『達第三十號 軍備補充費ヲ以テ建造ニ着手スヘキ巡洋戦艦二隻及二等巡洋艦一隻ヲ左ノ通命名セラル 大正九年三月二十六日 海軍大臣加藤友三郎|巡洋戦艦二隻 高雄(タカヲ)、愛宕(アタゴ)|二等巡洋艦一隻 由良(ユラ)』、p.21『達第三十二號 艦艇類別等級別表巡洋戦艦ノ欄「赤城」ノ次ニ「、高雄、愛宕」ヲ、巡洋艦二等ノ欄「名取」ノ次ニ「由良ヲ加フ』〕。この名を持つ日本海軍の艦船としては3隻目〔#聯合艦隊軍艦銘銘伝76頁〕。なお、名称は海上自衛隊のあたご型護衛艦の1番艦「あたご」に受け継がれている。太平洋戦争では1944年(昭和19年)10月のレイテ沖海戦で沈没するまで、ほぼ一貫して第二艦隊旗艦の座にあり、金剛型戦艦、長門型戦艦、大和型戦艦等を指揮下に置いた。 急ピッチで工事をしたため1番艦の高雄より早く完成した。このため、高雄型重巡を愛宕型と呼ぶこともある。 == 艦歴 == 一等巡洋艦・愛宕は1927年(昭和2年)4月28日に呉海軍工廠で起工、1930年(昭和5年)6月16日に進水〔#昭和12年12月1日現在艦船要目公表範囲p.4『愛宕|一等巡洋艦|(艦諸元略)|呉工廠|2-4-28|5-6-16|7-3-30|(装備略)』〕。初代艦長佐田健一大佐の指揮下、1932年(昭和7年)3月30日就役する〔。4月16日には犬養毅首相を始めとする政府高官を乗せて東京湾を巡航する。同年12月、2代目艦長高橋伊望大佐の指揮下、第二艦隊・第四戦隊に編入された。 昭和8年(1933年)8月26日には横浜沖で行われた特別大演習での観艦式に鳥海(先導艦)、愛宕、高雄、摩耶は昭和天皇が乗艦する戦艦比叡の供奉艦として参列した。 昭和11年(1936年)10月25日、御召艦比叡および供奉艦時雨、白露は神戸港に到着、鳥海、愛宕、足柄は礼砲で昭和天皇を出迎えた〔#昭和十一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌p.34『囁き交わす歓びの会話の瞬間にゆらめく和泉灘の金波をかき分けて、神戸港の防波堤に近づく比叡の英姿、仰ぎみる檣頭高く錦旗は、今ぞはためく、続くは供奉艦の「時雨」「白露」その時突如海面をどよもす二十一発の皇禮砲は鳥海、愛宕、足柄の各艦から発せられ…』〕。26日、昭和天皇は広島県江田島の海軍兵学校に行幸する事になり比叡から愛宕に移乗、時雨、白露を供奉艦として江田島へむかった〔#昭和十一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌p.36『かくて八時御召艦愛宕は抜錨、供奉の駆逐艦白露、時雨を従へ、第一航路関門を経て御出講、この時連合艦隊旗艦長門が放つ皇禮砲第一発に続いて、各戦隊毎に二十一発の皇禮砲を発し…』〕。海軍兵学校行幸を終えて28日に神戸に帰着すると、御召艦は愛宕から比叡に戻り、10月29日の観艦式当日を迎える〔#昭和十一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌pp.39-45〕。御召艦比叡、供奉艦愛宕、鳥海、足柄という編制であった。観艦式終了後、昭和天皇と比叡(御召艦)、時雨、白露は横須賀へ向かった〔#昭和11年特別大演習観艦式賜饌艦設備に関する件 訓令中改正の件(1)p.8,13『午後2時40分、御召艦横須賀ニ向ケ出港ス。駆逐艦時雨、白露ハ賜饌後御召艦附近ニ待機シ御召艦出港ノ際供奉ス』〕。 昭和13年(1938年)4月には近代化改装が行われ、翌14年(1939年)10月に工事完了。昭和16年(1941年)10月、摩耶に代わって第二艦隊(近藤信竹中将)旗艦となった。中島親孝第二艦隊通信参謀によれば、本来は高雄が旗艦だったが、事故により愛宕に変更されたとしている〔#聯合艦隊作戦室18頁〕。11月29日、呉を出港し〔#愛宕奮戦記33頁〕、12月2日台湾の馬公に到着する〔#愛宕奮戦記36頁〕。12月4日、高雄、戦艦金剛、榛名を従えて出港〔#愛宕奮戦記38頁、#聯合艦隊作戦室26頁〕、愛宕は日米開戦に向けて配置についた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「愛宕 (重巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|